戦争孤児のと言う名の子どもたち

「火垂るの墓」野坂 昭如 著
・・は、長編アニメーションとして、映画化されました。
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昭和20年 終戦当時

日本には、約12万人(沖縄を除く数)の「戦争孤児」と、呼ばれる子どもたちがいました。

たんさんの戦争孤児たちは、それぞれの人生を生き抜き、あるいは、命を落としました。
その中には、生きていくために、盗みなどをせざるをえなかった多くの戦争孤児たちがいました。

次第に治安を乱す存在と、捕えられるようになります。
「狩り込み」と呼ばれた警察による取り締まりが行われるようになりました。

(以下、朝日新聞連載より)
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戦争孤児の研究をする前田一男立教大学教授(近代教育史)は語ります。
「戦争孤児は戦争が終わってから本当の戦争が始まった。戦後が生きるための戦争だった」

「世の中を安定させていくためには、戦争孤児は邪魔な存在という意味合いが「狩り込み」という言葉に象徴的にあらわれている。だからこそ、保護し教育されるべき存在が、治安の対象にされた。
自己責任ですよ。
ちょっと極端な言い方をすると、10才前後の子どもたちが自己責任を負って生きていけ、そういうような突き放され方をしたんじゃないかなあと思いますね」

・・・・・・・

上野駅地下道が忘れられない場所だという戦争孤児がいます。
金子トシさん(82才)です。
15歳の時に空襲で親を失いここで(上野駅地下道)兄弟と暮らしました。
上野駅の地下道にあふれていた戦争孤児たち。
幼い孤児たちが飢えや病気で次々に死んでいく様子が、いまも金子さんの脳裏から離れません。
弟は10才、妹は8才、全く先の見えない不安な中で生きていました。
手にわずかな金で得た食べ物を分け合い飢えをしのいでいました。

金子さんはその後結婚します。
ご主人が「上野の桜を見に行こう」と何度誘っても、金子さんはお花見には行けなかったと語ります。

・・・・・・・

戦争孤児の体験を子どもたちに話している人がいます。
山田清一郎さんです。
孤児としての苦しみは戦後もずっと続きました。
山田さんは2年もの路上生活の後、12歳の時に長野県の戦争孤児の施設に保護されました。
施設にいたのは、同じ身寄りのない戦争孤児12人でした。
新たな生活を始めた子どもたち。
しかし、待っていたのは冷たい差別でした。

山田さんは語ります。
「一番困ったのは学校問題。学園(施設)から小学校へ行くのに村の人たちはみんな反対。
浮浪児は学校に入れるな。野良犬は入れるな、バイキンのかたまりだと。
私たちはずっと学校に行きたいと言いながら学校に行けなくて、翌年になってようやく学校に行けるようになった。

『やっと学校へ行けるぞ』って学校に行ったら教室がない。
先生が連れて行ったのが3階の物置で小さな部屋を片付けて、机が三つ置いてあって、机と黒板が置いてあるだけ。
『これがお前らの教室だ』ええって思い。

黒板に何て書いてあったか。
『浮浪児 犬小屋』と書いてある。
おそらく生徒がいたずらしたんだと思う。
なんで先生がそれを消さなかったのか。
私は4、5、6と3年間学校に行けなかった。
他のみんなも同じだった。
3年間行けなかった子どもたちがやっと学校に来る日なのに、それをあたたかく迎えようとする教師が一人もいなかったということですね。
今でも私はその日の事を忘れません。」

山田さんは施設を出たあと、鉄工所などで住み込みで働きながら定時制高校に通い大学の夜間部まで進んで、中学校の教師となりました。

・・・・・・

戦後70年

もうすぐ 8月です

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東京都出身。元、公立中学校教員。
現在は、フリーとして、音楽教育や吹奏楽に関わっています。
このブログを通じて、音楽や教育、吹奏楽やその他、心に感じた事柄をみなさまにお伝えできればと思います。
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